「私たちが自然を所有しているのではなく、彼らが私たちを所有している」

これは、隣に住むニュージーランド先住民マオリ族の末裔カレンが教えてくれた言葉。
地球は今、危機的な状態にある。爆発的な人口増加と非条理な大量消費社会の暴走によって、化石燃料だけでなく、食料や水も枯渇寸前だ。

さあ、どうするか。

これら地球規模の問題を解決できる立場にあるのは、動物や昆虫でもなく、ぼくら人間だけだ。

そのために、テクノロジーと社会構造においてイノベーションを起こし続けることも必須だが、まずはシンプルに、自然の存在を日常に感じられるライフスタイルをデザインすべき、というのがぼくの持論だ。

街でまったく不便のない日常生活を送りながらも、多くの人が山や森にキャンプに出かける。
都市的な利便性を捨てて、わざわざ「不便さ」を体験するために。

img_4890.jpg 〈Photo. Taiga Beppu in NZ〉

なぜか。
それは、失う便利さ以上の〝プラス体験〟を求めての行動だ。
壮大な夕景だったり、マイナスイオンたっぷりの空気だったり、木々や緑の香りだったり……。
そんな大自然がもたらしてくれる「なにか」を得るために、人は自然と触れ合おうとする。

人間は古来、自然と共に生きていた。
もっというと、ぼくらは自然の一部であった。

その古い記憶がぼくらのDNAに刻み込まれている。
たとえ生まれも育ちも都会で、自然体験が皆無だとしても、自然を求める本能は、あなたの中にも必ず眠っているのだ。

もちろん、週末や休みを利用して、自然の中に入っていくアウトドア活動ができればいいが、そこまでやらずとも、日々の生活の中でいつでも、自然を感じることはできる。
空、天候、大気の香り、公園の木々、風の動き、道端の草花……などなど。

自然は形を変えて、ぼくらのすぐ近くの、さまざまなところに存在してくれる。

そうやって、ささやかな自然の美しさを感じ、感謝することができれば、誰でも自然とつながることができる。
野生動物たちにはないこの感性を、ぼくらすべての人間は、「あたりまえの能力」として〝特別に〟授かっているのだ。

都市部だろうが郊外だろうが、どこにいようとそこは同じ地球の上であり、ぼくらは自然環境に常に依存して生きている。
端的に言うと、人間が食べるものはすべて地球上で生産されたもの。食糧はすべて大地からのいただきものということだ。

つまり、ぼくらは「食」という行為を通して、自然とつながっているのである。そして忘れられがちなことだが、原生林の湧水も、蛇口から出る水道水も、源は同じだ。

img_4428.jpg 〈Photo. Taiga Beppu in NZ〉

移住後しばらく続けた湖畔のキャンプ場生活。
大雨が降れば天井の爆音で耳栓をしないと眠れないし、強い風が吹けば酔うほど揺れる。
外の自然界とぼくを隔てていたのは、キャンピングトレーラーの薄い壁板一枚だけ。

こんなぼくの体験は少し極端だけれど、都会のマンションに暮らしていても、自然の存在をちゃんと感じる時間を持つことで、自分もその一部だということを忘れずにいられる。

ぼくは人間の可能性を信じている。
人類がこれまで生み出してきた、数々の素晴らしきテクノロジー。これからは、人間社会と地球環境をアップグレードするための、さらなるイノベーションを創造し続けるだろう。
その共創活動にコミットし続けたいと願うのは、ぼくだけじゃないはずだ。

しかし、〝自然に寄り添う感性〟なきままの、テクノロジー革新は危険だ。

持続可能な社会をつくるためには、まずはこの感性を「取り戻すこと」こそが重要なのではないだろうか。