ニュージーランドの湖畔の森の、パーマカルチャー的な集落に暮らしていると「お金を使うこと=非クリエイティブな行為」だと、思えるようになる。

例えば、本棚が必要になったとしよう。ネットや家具店で、お気に入りを見つけて買おうとする。でも、そのためにはお金が必要だ。

そのお金を稼ぐために人は働く。

もし、仕事そのものがあなたや他人を幸せにし、その仕事が環境への負荷が少ないならば、あなたはとても恵まれている。なんの問題もない。

でも多くの人は、心と体、家族や友、自然環境を犠牲にしながらお金のために働き、そのお金を使うために人生を費やしている。



ニュージーランドに暮らす人々の価値観は日本人のそれとは違う。彼らは、心身を壊すほどの過剰労働は避け、自分や家族との時間を大切にしながら、当然のごとく環境保全を優先する。

そして、さすがDIY立国、彼らは「いかにお金を使わずに生きるか」ということに多大な時間と労力を費やすのだ。いろんなものを自作するし、何かが壊れたら自ら修理し、家の改築までも自分の手で行う者も多くいる。

多くが「お金を使ったら敗北」という精神性を持っているこの国を、ぼくはこよなく愛してしまうのだ。

「そんな、なんでも自分でやるなんて時間の無駄」と、拒否反応を示す人は多いだろう。「お金で時間を買えばいい」という発想の人はもっと多いだろう。

だが、「できる限り Do It Yourself の生活」に挑戦してみると、体は鍛えられ、手先は器用になり、創意工夫力は磨き上げられる。なにより、手間暇をかけられる喜びと達成感を得られ、幸福度が高まるのがいい。



その結果として、生活力だけでなく人間力を高めることが可能となる。そして、一番の利点は「人としてのサバイバル能力」を身に付けるところだろう。

ぼくは、これが決して「時間損失行為」ではないと強調したい。それどころか、有意義な時間を創出する「クリエイティブな行為」だと言えるだろう。

しかし、人間は万能ではない。不器用な人もいれば、力持ちもいる。繊細で頭が鋭い人もいれば、大らかなノンビリ屋さんもいる。それぞれに得意不得意、個性があり、誰もが独特であるはず。

一人ですべてをやるのは不可能だし、決してすべてを自分でやれるようになる必要はない。
(もし、そうできれば理想だが!)



ここで重要になってくるのが、「スキル交換」という概念。

ぼくが暮らす小さな集落で行われている「物々交換」の詳細は前号に書いたが、ここではモノだけではなくスキルの交換も行われる。つまり「技術と技術、技術と物の交換」だから、「技々交換」「物技交換」という表現がぴったりだろう。

例えば、集落にはこんな友人たちがいる。配管修理ができる造形アーティスト、ボートや車のエンジンに詳しいデザイナー、植物性100%の有機堆肥づくりの達人、常にご近所さんを気にかけて愛と気配りを配達する先住民の主婦。

ぼくの湖畔の森の生活は、こんな人たちに支えられて成立しているのだ。そんな彼らにぼくらがお返しできることは、ぼくのスキルを提供することである。

年配のご近所さんにはネットやPCの設定のお手伝いをしたり、近くの海で釣った魚をみんなに配る。時々、この湖で観光業をするお隣さんのホームページへのアドバイスをさせていただいたり。

この集落では、レコード会社プロデューサー時代のスキルよりも喜ばれるのは、幼少の頃から続けてきた「釣り能力」なのだ(笑)。



「自分にはなんのスキルもない」なんて言わないで欲しい。前述の〝気配り主婦〟が周りに提供している〝優しさ〟だって立派なスキルだ。そして、彼女こそがもっとも尊敬され大切にされている。

余談だが、「ぼくはなにもできないけれど時間はあります!」と言い放った教え子の大学生がいたが、それだって充分なスキルだと断言できる。

スキル交換は決して、世界の辺境で行われている奇妙な習慣ではない。お金のやりとりでは生まれない「気持ちと感謝の交換」が発生する美しい行為と言えよう。むしろ、暴走するマネー至上主義経済の方がよっぽどおかしいし、醜いと言い切れる。

もっと言うと、誰かが勝手に広めてしまった不公平な貨幣制度が世界を席巻する前には、世界中であたりまえのように行われてきたことでもあるのだ。

ぜひ一度立ち止まり、今の働き方と暮らし方に疑問を持ってみてほしい。そして、お金をなるべく使わず、体と手先と頭をフルに活用する、お金から自由になるクリエイティブな生き方を模索してみてはいかがだろう。

〈All of photos with no credit: Daisuke YOSUMI〉

▽シリーズ《お金から自由になるということ》
お金から自由になるということ・前編
②お金から自由になるということ・中編
お金から自由になるということ・後編