フライフィッシングとニュージーランド


釣りの原体験は、確か幼稚園に入る前ころだっと記憶する。

以来、細い糸一本で魚とつながる感覚の虜になってしまい、小学生、中学生、高校生と歳を重ねながら、ため池、湖、本流、渓流、海と、さまざまなフィールドでの釣りを経て、大学生になって遂にフライフィッシング(マス釣り)をはじめることに。

ぼくの人生に大きな影響を与えることになったこの釣りをはじめるキッカケとなったのが、ニュージーランドだった。

現地に留学中の親友トシゾーが、手紙で通信教育をしてくれたのだ。まるで釣りマンガの主人公〝釣りキチ三平〟が、彼の師匠である〝魚紳さん〟に手紙で教わったように。

つまり、ぼくにとって「フライフィッシング」は「ニュージーランド」と同義語なのだ。

IMG_0854

「透明な水たまり」を追い求めた我が人生


ぼくの生き方を決定づけたものがもう一つある、それは「透明な湖」だ。

生まれ育った大阪の田園エリアには、小さな沼がたくさん点在していて、小学校の授業が終わると毎日、釣り竿を持って出かけていた。

その中に一つだけ、きれいな湧き水の池があった。家から自転車で10分くらいのところにある雑木林を、ヤブ蚊に襲われながら道なき道を歩いて入って行くと、その池は、林の奥に「ポツリ」と存在したのだ。

不思議なまでに透明な、その小さな池の存在感に怖いくらいに魅了されたことを今でも覚えている。そして、それ以来「透明な水たまり」を追い求める人生が始まった。

小学校高学年でツーリング用自転車を手にいれたぼくは、家から2時間くらいのところにある小さな山上湖に行くように。そこには中学校を卒業するまで通い詰めた。高校になってオフロードバイクに乗るようになると、さらに頻繁に、その山上湖を訪れるようになった。

大学生になって上京し、肉体労働のバイトで貯めた30万円で購入したボロボロの4WDバンを手に入れてからは、湖畔から湖畔を転々とする「レイク・ホッピング」を続けることになる。

新卒で配属されたソニーミュージック札幌営業所時代のホームレイクは、支笏湖。東京勤務になって最初に選んだ街は本栖湖にアクセスしやすい調布市。最後は、芦ノ湖通いのために用賀インターすぐ近くに引っ越した。借りる部屋はいつも、それぞれの湖まで1時間以内としていた。



ニュージーランドの虜になってから約6年後に、初めてこの国を訪れることになる。

国際線から国内線に乗り換え、ニュージーランドのある湖畔の空港に着陸する寸前、光を放って輝く湖面が迫ってきた。思わずぼくは、窓に顔を押し付けるようにして、それを凝視した。

それまでの年月で頭の中はニュージーランドでいっぱいになり、溜め込んだ知識と創り上げたイメージはかなり膨張していた。事前に期待を膨らませ過ぎると、実際にそれを体験した時に、「あれ? 期待ハズレ」となってしまうパターンに落ち入りがちだ。

だが、この国の息をのむほど透明な湖を見おろした瞬間「あ、ここが好きだ!」と、不思議なくらい腑に落ちてしまったのだ。「しっくりくる」という言葉以外では表現不可能な衝動。頭の中だけでなく、心と細胞すべてが、この国の湖とマッチしたのである。

それ以来、年に1〜2回のペースで現地を訪れては、住む場所を探すべく湖畔の街を転々とする旅を続け、移住するまでの15年間で渡航回数は15回を超えた。 僕にとっての「ニュージーランド移住」は「湖そしてフライフィッシングとともに暮らすこと」なのだ。

死ぬまでに、モンカゲのスーパーハッチにあと何回出会えるのだろう?


日本にいる間は、年に2〜5回のペースで北海道に釣行した。当時、ぼくが一番通いつめたのが阿寒湖だ。ここの澄んだブルーグリーンの美しい湖水と、5月のワカサギと6月のモンカゲロウの釣りが大好きだった。

「大輔。モンカゲのスーパーハッチ(大型のカゲロウが集中的に羽化する現象で、大型魚が釣れる)に遭遇できるチャンスは、死ぬまでにあと何回あると思う?」

ぼくのレイクフィッシング師匠であり、阿寒湖のレイクキーパー桶屋潤一さんのこの一言に、後頭部が殴られたような衝撃を受けた。何度も阿寒湖を訪れていたとはいえ、5〜6年の間に本当のスーパーハッチに遭遇できたのは一度しかなかった。

当時30代半ばだった僕の残りの人生が45年だとしよう。「残り45年間」と考えたら数え切れないくらいのチャンスがある錯覚に陥ってしまうが、モンカゲの6月を経験できる回数は実は「45回」しかないのだ。そして、旅行者として訪れるレベルだとスーパーハッチに遭遇できる可能性は、10回もないことになる。

ぼくが移住先として決めた、ニュージーランド北島のある湖のインレットの、スポーニング時期のファーストランに遭遇できる可能性においては、旅行者でいる限りは片手で数えられる回数しかないことになる。

当時、仕事を辞めるめどが立たず、永住権取得も難航。諦めかけていた時期でもあった。だが、人生は一度しかない。二度あれば、次の人生で頑張ればいいが、人生とは一回きりだ。

改めて、この言葉の意味を噛みしめ、ニュージーランド移住を再決意したのだった。

〈All of photos with no credit: Daisuke YOSUMI〉