険しい道へ、踏み入る。チャンスは、35歳。
「35歳までに移住」。これが、当初の目標だった。
この目標設定には根拠はあまりない。切りの良い年齢だというのと、現地で行きたい川や湖、山や海といったアウトドアフィールドが無数にあったため、体力のあるうちに移住したい、という思いがあっただけだった。
「永住権ってお金を払えば取れるのですよね」とよく言われる。
確かに、最新の制度には「投資家部門」というのがあり、「約6億円をニュージーランド国内に2年以上投資(NZ$1=60円換算)」すれば、英語の試験も免除となり、ある意味無条件で取得可能だ(2010年当時)。
そんな大金がないぼくは、「技能移民」という、地道な作業と粘り強さが要求される部門で申請。
15年以上も前の話。
レコード会社3年目のとき、札幌営業所から東京本社へ異動となった(1997年)。
ぼくが真っ先に向かった先はニュージーランド大使館だった。
当時の僕にとって、日本国内におけるニュージーランドといえばそこ。渋谷松濤の閑静な住宅街に、上品にたたずむ大使館を目の前にして、ヒリヒリとした緊張と感動に包まれた感覚になったことを覚えている。
中に入るとそこは、チラシや情報ペーパーが並べられた田舎街の公民館のような空間だった。少し違うのは資料の半分以上が英語だったことだ。
その一角には、日本語のニュージーランド関連本がずらりと並ぶちょっとした図書スペースがあった。食い入るように資料に目を通し、本棚にあった本のタイトルはすべてメモした。
そして数時間後、そこには永住権に関する資料がないことに気付く。窓口の女性に相談をしたところ、重い封筒をゴソッと渡された。
彼女の説明によると、大使館で説明は一切行なっておらず、「この中にすべて書いてある。質問があれば資料中の連絡先に問い合わせるように」とのことだ。
当然、書類はすべて英語で、そこに書かれた電話番号は外国のもの。永住権取得への道のりがとんでもなく遠く感じられて、家に帰っても、しばらくその分厚い書類を読む気にはなれなかった。
数日かけてなんとか熟読。
要約すると、学歴・職歴・年齢などの細かい項目ごとにポイントが設定されていて、その各ポイントの合計が、ある一定数を超えないと申請さえもできない。ここまではガイドブックにも書いてあったことだが、そこにはさらに項目ごとの細かい計算方法が載っていた。
その時点での僕は、職歴が短すぎてポイント総数が足りないことが判明。計算すると、職歴10年目となる35歳の年にポイント総数をクリアするが、36歳になると年齢ポイントが下がってしまうため、ポイント不足状態になってしまうのだ。
つまり、チャンスは35歳時の1年間だけ、という綱渡りのような状況であることがわかった。
永住権の獲得は地道な作業の繰り返しだった。
なにしろニュージーランドでは、その制度自体がたびたび変更になる
決断の時、目標は30代へ
年月が過ぎ、いよいよ申請準備を始めようと、普及し始めていたネット検索で情報を捜すと、なんと永住権申請のシステムが大幅に変更になっていた。
人口が400万人という小国で、国力増強のためには移民に頼らざるをえない。
その移民を受け入れるシステムを、社会や経済状況に合わせて頻繁に変更していたのだ。おどろきつつも、冷静になって新ポイント制度で計算すると、なんとその段階でぼくはポイントをクリアしていた。
だがその直後、ニューヨークで911が勃発。
国際テロ集団アルカイダが唯一ターゲットにしていない英語圏の国はニュージーランドだけだと知れわたった直後、世界中から移民希望者が殺到。
その影響もあってか、あっという間にハードルが上げられてしまった。 気付くと目標としていた35歳目前となっていた。当初の目標クリアは明らかに不可能。
そこで僕は目標を再設定し、40歳になるまで、30代で移住しようと決心する。
これまでは、自分の英語力を過信して独力でやってきていたが、もはや英語力も気力も低下していたので、プロの手を借りる方式に作戦変更。
年に1〜2度のニュージーランド旅行の度に、現地で複数の移住コンサルタントと面談をし、5人目で出会った移民弁護士に、約25万円を支払って正式にコンサルを依頼。この決断が正解だった。
続く道のり、そしてゴールへ
まずは英語試験だと言われ、仕事の合間を縫って試験勉強を敢行。
当時、担当していたアーティストが大ブレイクするなど、今思えば、あのころの忙しさは異常なレベルだった。勉強しながら本当に何度も、自宅のソファーで気を失いそうになった 。
しかし幸運にも、一度目の受験で、条件となっていたIELTS(イギリス英検)で6.5ポイントをクリア。
これは日本英検1級、TOEIC850点相当とされるほどの難易度だ。
高校三年生で米国留学した直後の、英語力がピークだった大学生時代にTOEICで900点を取っていたとはいえ、それは何年も前の話。社会人になってから、英語を使う機会がほとんどなかったため、英語力を完全に失っていたぼくにとっては、激務を縫っての受験勉強は本当にキツかった。
そして、最大の難関はニュージーランド国内企業からの「内定」だ、日本に住みながらにしての就職活動はとても厳しく、これには約2年を要した。すべての条件が揃って申請をした後も、無犯罪証明書、健康診断書などの提出など、実務作業は続いた。
そして、申請後にひたすら待つだけの丸1年を経て、遂に永住権が発給。
日本のパスポートを、ニュージーランド移民局のアジアオフィスである北京に発送した約1ヶ月後に、永住権シールが貼られて戻ってきた。あれほど恋い焦がれていた永住権が、中国の切手に中国語の消印が捺印された封筒に入っているのを見た瞬間、夢を見ているようなファンタジーな気持ちになった。
準備から丸3年、39歳の年。修正後の目標をなんとかギリギリでクリアできたのだった。
〈All of photos with no credit: Daisuke YOSUMI〉