「人は誰もがアーティストであり冒険家」
ぼくはいつもそう語りかける。
この投げかけに多くの人は、
「私は絵を描けません」
「歌ったり、踊ったりできません」
「アートに関する才能なんてないです」
「冒険なんてできないし、したことない」
と、拒否反応を示してくる。
〝アーティスト〟や〝冒険家〟という言葉の響きに
尻込みしてしまうからだ。
でも、そうじゃない。
〝アーティスト〟とは
ある芸術の分野に長けている人の
ことだけを指している言葉ではないんだ。
〝冒険家〟とは
極寒の北極大陸を徒歩で踏破したり、
自転車でアメリカ大陸を横断したりする人の
ことだけを指している言葉ではないんだ。
人生という名の冒険の旅は、
ぼくらがこの世に生を受けた瞬間から
はじまった。
この旅は実は、
〝表現活動の旅〟だったことを知ってるかい?
地球上に生きる人すべてが、
安全かつ「100%安心な母親の胎内」から、
「危険な未知の外界」に命懸けで飛び出した。
それは誰にとっても、
とてつもなく大きな勇気を必要とした
人生最大の挑戦だったんだ。
生まれたあと、
たとえあなたがワールドクラスの冒険家になり
世界最高峰のエベレストに登頂したり
カヤックで大西洋を横断できたとしても、
あの〝誕生という冒険〟の方が
比べようがないほど危険だったんだ。
そして、新生児として
この世に生を受けたその瞬間、
誰もが驚愕し、感激し、震えたはず。
ぼくらはそれぞれの方法で
いろんな声でその衝動を表現したはず。
命からがら誕生し、声に出せず
心の中で叫んだ人もいただろう。
その日から今日まで
意識しようがしまいが、圧倒的な事実として、
ぼくらは全員、表現活動を続けてきた。
これは絶対不変の真理なんだ。
「生きる」とは、
命を燃やしながら、人生というキャンバスに
自分を描き、表現し続ける行為。
つまり、
〝人間=アーティスト(表現者)〟ということだ。
あとは、あなた次第。
その事実を認めた上で
表現者としてあなたの人生を生きるか、
その事実から目をそむけて
〝自分らしさ〟を封印したまま
残りの余生をなんとなく過ごすか。
覚悟があなたの人生を決める。
その覚悟さえあれば、あなたは自由になれるんだ。
この星には70億人以上が住むけれど、
誰ひとりとして、同じ人間はいない。
ひとりひとりが特別な存在だ。
これまでぼくは
多くのシンガーやバンド、クリエイター、
起業家、そして学生たちのプロデュースや
インキュベーション活動に従事してきた。
そして、
毎日の生活で数えきれないくらい多くの
人たちに出会ってきたけれど、
誰ひとりとして〝普通の人〟なんていなかった。
もしあなたの知り合いで
「この人は特別ではなく普通なんです」
という人がいたらぼくの前に連れてきて欲しい。
どんな人でも、ぼくは絶対に
その人が特別であることを証明してみせよう。
誰もが「その人にしかないいびつさ」を持っていて、
ぼくにはそれが〝小さな輝き〟として見えるんだ。
ぼくら人間はそれぞれが
まったく違うカタチをしていることを
知っているかい?
パズルのピースを思い浮かべてもらえばいい。
丸とか正方形とかの〝定型〟ではなく、
ガタガタで、いびつで、
ひとつとして同じカタチは存在しない。
みんな違ってあたり前で、
「普通」とか「同じ」なんてあり得ない。
でも日本には、もはや時代遅れで画一的な
「生き方」や「成功」を
〝ジョーシキ〟や〝正解〟として
押し付けるガチガチの教育システムと
強烈な社会重圧、同調圧力がある。
それは、支配者層にとって都合のいい
コントロールしやすい人間を、
大量生産するために張り巡らされた
巧妙なソーシャルシステムだ。
ぼくも、
そんな異常な仕組みとプレッシャーに、
負けてしまった時代があった。
もともとぼくが持っていた、
ギザギザ、トンがっていた部分を削り取られ、
正方形の中に押し込められそうになった。
「その型に収まってしまった方が楽かも」
とまで思うようになり、いつの間にか
自分の形を〝ワク〟にはめようとしていた。
自分で自分を縛り付けていたんだ。
〈Photo. Shotaro Kato / Model. Daisuke Yosumi in Yakushima〉
その結果、
顔の半分がけいれんしたり、
人前に立つだけで顔と体が発熱したり
原因不明のじんましんが出たり、
言葉をスムーズに発せなくなったりした。
夜、眠れなくなったこともあった。
自分がジブンでなくなってしまったようで
怖かったんだ。
たとえ頭で、他人の命令に従おう、
周りに合わせようとしていても
体の胸のあたり、心の一番中心に存在する
〝ぼく自身〟である〝魂〟が
〝体というツール〟を使って
必死になって「ダメだ!」と叫び、
サインを送ってくれていたんだと思う。
あなたの魂を殺す、目に見えない圧力や
目に見えるシステムに負けつづけていると、
人間は気付かないうちに、
同じ型のワクに収まりきってしまい、
感性や才能、
アーティスト性を失ってしまうことになる。
ついにはその状態が〝あたり前〟となり、
安堵を感じるようになってしまい、
そこから抜け出すことに
恐怖さえ感じるようになる。
そうなってしまうと
〝あなた自身〟は存在感を失ってしまい、
あなたの〝魂〟は消滅してしまうんだ。
その状態はまるで
「肉体という器」だけが残された
抜けがらのような、空洞化人間。
それは〝肉体の使用期限=命〟を失うことよりも
やってはいけないことだ。
「人の命こそが地球上でもっとも尊い」
という有名な言葉があるのは知っている。
しかし誤解を恐れず言うと、
ぼくは違うと思っている。
肉体は今回の人生における
単なる〝期限付きの借りモノ〟だけど
心の最深部にある〝魂〟は永遠だ。
単なる物体(=身体)の寿命よりも、
永遠なる魂の方が尊い、とぼくは信じている。
命を失うことよりも
〝魂を売ったり汚したりすること〟のほうが
やってはいけない行為。
絶対に、自分の心に嘘をついてはいけない。
ぼくはそう信じている。
だから、あきらめて欲しくないんだ。
どんなに強い力で箱に押し込まれそうになっても
最後まで抵抗して欲しい。
死ぬ気になって
あなただけのかけがえのない
美しき〝いびつさ〟を守り抜いて欲しいんだ。
でも、ひとりで頑張る必要はない。
自ら先に心を開き、本気で探せば
必ず〝ひとり〟は味方がいるから。
それは家族かもしれないし、
友かもしれないし、恋人かもしれない。
SNSでつながった同志かもしれない。
その人は
あなたのピースに欠けている部分を
補ってくれるだろう。
そして、あなたの出っ張りは
その人の隙間をしっかり埋められるだろう。
世界はそういうふうにできている。
ここで声を大にして伝えたいのは、
〝本当の味方〟は、
ひとりいれば充分、ということ。
もしあなたが
不安に押しつぶされそうになったとき、
この話を思い出して欲しいんだ。
味方は、ひとりだけでいいということを。
あなたが生まれ持った
その〝いびつさ〟こそが
〝あなた独自の美しさ〟となる。
繰り返して言うが、ぼくの眼にはそれが
〝小さな輝き〟として見えるんだ。
その人にしかない〝感覚や好き嫌い〟を
ぼくは〝いびつさ〟と呼び、
そのカタチがいびつであればあるほど、
その光はまぶしいほどの力を放つ。
その輝きこそが、
人を〝オリジナルワン〟たる存在にする。
その神聖な〝いびつさという輝き〟に触れた瞬間、
ぼくはその人にアーティスト性を感じるんだ。
言葉を変えると、
それは〝才能〟や〝感性〟という意味も含んでいる。
ぼくがこれらの言葉を持ち出すと、
拒否反応を示す人が必ずいる。
〝才能=ホームランバッター〟
〝感性=天才的なセンス〟ではない。
決して、ない。
世間でいうメジャーな能力のことだけを
指している言葉じゃない。
「とにかく湖が大好き」
「大きな魚を釣るためならどんな努力も可能」
「土いじりなら何時間でもやれる」
「買い物は面倒で疲れる」
笑わないで欲しい。これはぼくのことだ。
こんなことが輝き?
それが才能なの?って思うかも知れない。
でも、
「放っといてくれ!コレがぼくなんだ!」
と叫ばずにはいられないほど、
恥ずかしいけどコレこそがぼく自身なんだ。
「変わってる」
「ヘンなヤツ」
「普通じゃない」
とずっと言われてきた(たぶん今も・笑)。
声を大にして言わせて欲しい。
しょせん人間なんて全員が〝変人〟だ。
繰り返し言おう。
〝普通の人〟なんてこの世にはいない。
ぼくは未だに
〝まとも〟とか〝あたり前〟の意味がわからない。
それでもまだ、
「普通になりたい。皆と同じでいい。いびつは嫌」
という人はいるだろう。
〈Model. Daisuke Yosumi〉
そんな人はぜひ、あなたが生まれた瞬間の
赤ちゃんのころを思い出して欲しい。
あのころは誰だって、圧倒的にいびつだった。
バランスをとれる赤ちゃんや、
気配りができる赤ちゃんなんていない。
当然〝自分らしくない〟赤ちゃんもいない。
あのころは誰もが
その瞬間の感情をただ表現していただけ。
とてもシンプルな状態だったんだ。
そしてあれこそが、
人間のもっとも美しい姿なんだ。
あの瞬間に戻れ、と言っているのではない。
あのころを思い出して欲しいだけだ。
人間は、ひとりでは生きていけない。
人と関わったり、支え合い、
大切な家族や仲間がいることではじめて
ぼくらは幸せを手にすることができる。
そのために必要な、
人類の歴史で完成された美しいマナーや、
他者や自然界への思いやりや慈愛を
物心つくころから、ぼくらは学んできた。
そうやって努力して身につけた
〝社会に生きる個としての美しさ〟に、
失われてしまった純真無垢なあの
〝生命体(=アーティスト)としての美しさ〟
を改めていま、掛け算してもらいたいんだ。
そうやって〝自身のルーツ〟を再確認し、
自分自身である〝あなたの中心部分〟
つまりあなたの魂と
深くつながれるようになると、
あなたらしい〝創造性〟が、
強烈な〝個性や独創性〟が、
驚くほど自然に湧き出てくるから。
つまり、あなたの中に眠る
〝真のアーティスト性〟を見つけ出し、
恥ずかしがらず臆せず、
表現活動を再開して欲しい、ということだ。
今からでも決して遅くないから。
怖いって?
わかる。
そんなときは
生まれたときのあの冒険を思い出そう。
ぼくらは全員「誕生」という
あの命懸けの挑戦を経験しているんだから。
あれよりも危険なことは、この世に存在しない。
ぼくらが生まれて最初にとった行動が
〝命を賭けた冒険〟だったんだから、
怖がることはなにもない。
生を受けてこの大地に立つ以上、
「挑戦しない人生に意味はない」ということを
実は、ぼくらは知っているのだから。
最後に。
パズルのピースの話を思い出して欲しい。
それぞれのパズルが
いびつなカタチであることに重要な意味がある。
一人でも、そのピース本来のカタチを放棄したら
パズルは完成しない。
人類とは、70億ピースの壮大なパズル。
人類全員が自分自身のいびつさを認め、
その本来のカタチを取り戻すべく
自分自身に集中すれば、
他人の人生を生きようとしたり、
他人をうらやましいと思ったりしないはず。
そして、
他者のいびつさも認められるようになり
自分とは違う、そのいびつさを美しく
愛おしく思えるようになるんだ。
人種、性別、外見、出自など
表面的などうでもいいことで
人を差別することもなくなるだろう。
差別ほど〝非クリエイティブな行為〟
はないと誰もが気付くだろう。
必然的に、傷つけ合うことも、
嫉み合いや奪い合いもなくなり、
〝与え合い〟がはじまるはずだ。
戦争やテロ、貧困も消え去ってゆくだろう。
それぞれがその本来の〝美しい姿形〟を手にしたとき。
つまり人類全員がアーティストになれたとき、
人類というパズルは完成することになる。
それが、世界が目指す方向であり、
人類がもっとも美しくなる瞬間だ。
それは地球上にわずかに残る
原始林と呼ばれる〝太古の森〟と同じ姿。
その森のあるエリアでは
お互いの栄養分を奪い合ったり、
滅ぼし合う〝寄生〟は存在しなくなっていて、
樹々も動物も苔も地衣類も微生物も、
すべての命が〝与え合う〟世界になっている。
つまり〝共生〟状態。
〈Photo. Shotaro Kato / Model. Daisuke Yosumi / 歩いて3日間かかるNew Zealandの原始林にて〉
それは人工的に作られた杉林のような
単一種の森とはまったく違う。
樹々やコケや地衣類はもちろん、
無数で多様性あふれる微生物たち。
ひとつとして同じ形のものはない
生命たちがそこに存在し、
美しき色とりどりの世界、
究極のグラデーション・ワールドを
創り出している。
それぞれの命が尊重し合い、
それぞれの命が支え合っている。
その結果、
森全体が〝ひとつの命〟となっているんだ。
そう、この〝共生状態〟こそが
もっとも美しい完璧な世界なんだ。
The Perfect World.
ぼくら人類は
そんな〝太古の森〟のような
圧倒的に美しい世界を目指すべきなんだ。
笑ってくれてもいい。
妄想家と呼んでくれてもいい。
ぼくは本気だ。
2015.07.04
〈Photo. Daisuke Yosumi in NZ〉
2016/08/08 00:00