植毛職人・西本隆子さん
大阪府東大阪市に、自然素材だけで歯ブラシをつくる町工場がある。持ち手には家具をつくる際に出たブナの木の端材、ブラシには食用の馬と豚の毛を再利用するアップサイクル製品だ。加工は職人が一本一本手作業で行うため、月に生産できるのは150本ほど。2021年に完成したこの歯ブラシ「turalist(チュラリスト)」はこれまでに1,800本以上を販売してきた。2023年には大阪府から「大阪製ブランド」に認定されている。
「turalist」の製造でただ一人植毛の作業を行うことができる75歳の女性職人、西本隆子(にしもと・たかこ)さんに話を聴いた。
西本隆子さん
「いまが一番幸せです」
そう語る西本さんが植毛職人として働き始めたのは、35歳を過ぎてからのこと。眉ブラシや化粧ブラシ、歯ブラシなど様々なブラシ製品をつくってきた。以来、40年にわたり植毛を行っている。
「一番下の子が小学校に通うようになって、昼間家にいるのが私だけになったの。子どもが帰ってきたら面倒を見ないといけないから、遠くへは出られない。だから近所にあった植毛工場にお世話になることにしたんです」
西本さんが「ご主人」と呼ぶ当時の植毛工場の社長は、手先が器用で機械いじりが得意な人だった。今でも60年以上にわたり使われている植毛の機械の一部は、その社長が設計・製造したのだという。機械といってもメーカーが量産したものではないから、マニュアルはなく壊れても修理に出すことができない。社長は機械の調子が悪くなると何時間も考え込んだり、色々な箇所をいじって調整をしていたという。
「工場に入ったばかりの頃は、使い方も直し方もきちんと教えられなかったの。だけどできないと怒られるから、泣いて帰ったこともありました。仕方ないからご主人をずっと観察して見よう見まねで覚えたのね。でも、私にはそうやって機械をいじるのがとても面白かったの」
植毛機械は多数の金属パーツで構成されている。その日の温度や湿度によって金属が伸び縮みするので、きちんと動作させるには全体のバランスを考えて細かな調整する必要がある。毛を植える歯ブラシのヘッド部分の穴はわずか数ミリなので、繊細な調整が要求される。
「『今日はどこが調子悪いの?』とか『もう少しがんばってね』って心の中で話しながら作業しているんです」
隅々までメカニズムを知り尽くした西本さんですら、調子の悪くなった機械を終業までに直すことができず、一度家に帰って家事を終えてから、夜中に工場に直しに行ったことが何度もあったという。
日々調子が変化する機械の調整も、西本さんの仕事だ。
プラスチックでも木材でも、歯ブラシのつくり方はほぼ同じだ。ヘッド部分にあけられた穴に機械を使って毛の束を打ち込む。その際、毛はV字になるように半分に折られ、平線(へいせん)と呼ばれる真鍮の小さな留め材で穴の中に固定される。ノートの中綴じと同じ構造だ。
木材を用いる「turalist」がプラスチックと異なるのは、職人が一本一本手作業で加工しているため、ヘッド部分の穴の大きさと向きがそれぞれ微妙に異なること、そして天然毛の太さがバラバラであることだ。一つひとつの穴の大きさと向きを見極め、適正な毛の量を植えていくには、慣れと経験が要求される。
さらに、一度平線が打ち込まれた木材は失敗してやり直そうとすると、穴の壁面が削れてしまう。再び植えたとしても留まり具合が悪くなるため、歯を磨く際に毛が抜ける原因となってしまう。
「せっかくの大切な木を、私が駄目にしてしまってはいけないから、ひと穴ひと穴心を込めて植えてます」
歯ブラシの穴は、一つひとつ向きも大きさも異なっている。
この話を聴くと、戦後プラスチックとナイロン毛でできた歯ブラシが普及したのは必然であったと納得できる。人口増加に伴い、安価で大量に歯ブラシを供給するには、工場での自動化が欠かせない。技術力に左右されずにまったく同じ規格で製造できるプラスチック製の歯ブラシはまさに工業化の賜物である。
西本さんがいた工場も一時は10人ほどが働いていたが、時代の波にさらされ、最終的には後を継いだ社長と西本さんの二人だけになってしまった。
病、そして新しい活躍の場
5年前、西本さんは心筋梗塞を患った。違和感を覚えたが、病院に行ったのは二日経ってからで、即日入院になった。手術の成功確率が五分五分だったことは、後になって知ったという。二日間放っておいた心臓は一部が壊死し、今でも普通の人の三分の一しか機能を果たせていないという。
工場の社長は西本さんの病状を聞いて会社をたたむことを決めた。それを知った西本さんも仕方ないと思ったが、心にあったのは「これで終わってしまったら、何も残らないな」ということだった。
「手術の後もね、仕事のことが気になって、工場に行ったりしてたの」
そんな時、社長のもとに自然素材の歯ブラシをつくりたいという話が舞い込んだ。
「自然素材の歯ブラシでしょう。それを聞いたとき、とても良いものだと思ったのね。よくそんなの考えはるなって。そして、その植毛だったら私できるって思ったのね。またお役に立ちたいって思いました。ただ、体力のことだけが心配だったんです」
西本さんの夫は仕事はもうやめておけと反対したが、植毛工場の社長は西本さんの自宅まで来て夫を説得したという。結局、1ヶ月だけという条件付きで再び植毛を行うことになった。「そしてそのまま現在に至ってしまったのだけれどね」と西本さんは笑う。
「病気をする前よりも、今の方が元気なの。今までで一番元気。不思議でしょう。周りのみなさんから元気をもらってるのね。turalistを開発した村中社長には本当によくしていただいているし、こうやって私に話を聞きにきてくださる人もいる。昔工場で働いていた時には経験できなかったことばかりです。歯ブラシが大阪府から賞をもらったり、本当にやりがいがあります。でもやっぱり、『西本さん、歯ブラシ使ったよ』っていう声を聞くのが一番嬉しい」
植毛を行えるのが自分ただ一人であることが、西本さんにとって心配の種でもある。そのことをプレッシャーに感じる時もあるという。
「年齢もあるし、体がいつまで言うことを聞いてくれて、この仕事を続けられるか。だけど、やっぱりあの機械は私の体の一部みたいになっているから、手放したくない。私、ほんまに機械とこの仕事が好きなのね。この歳になって、やりたいことをやらせてもらって、お客さんが喜んでくださる声が聞けて、毎日とても充実しています」
西本さんに今後の夢を聴いてみると「もう歳だから」と笑ったうえで、次のように話してくれた。
「歯ブラシの企画を考えるのは社長だけど、もし新しいものができるなら、それも植えてみたい。どんな風になるんやろうって気になります」
普段は温和で明るい西本さん。植毛の時だけは職人らしい厳しい目つきに変化する。
自分の仕事に向き合い続けること
珍しい自然素材の歯ブラシを見学するために、若い世代が工場を訪れることがある。彼らが一番感心するのは、やはり西本さんの植毛作業だ。そして明るく気さくな西本さんと楽しそうに話をして帰っていく。
「若い人たちと話していると、みんな環境や未来のことをちゃんと考えている。それはとても素晴らしいことね。話していて私の方が元気をもらえます」
西本さんはそう言うが、元気をもらっているのは、私も含め西本さんと話す若い世代の方だ
「人生100年時代」と言われるようになって久しいが、先のことはますます見通しづらくなっている。働き方・暮らし方の変化、家族や健康の問題。正解がない中で、誰もが日々悩んでいる。
「turalist」は海洋プラスチックの問題を受けて開発された歯ブラシだ。ただ、その環境問題でさえ今後どうなっていくのかはわからない。それでも、その歯ブラシの製造を支えているのは、40年の歳月をかけて培ってきた西本さんのたしかな技術だ。
工業化の波にさらされ、非効率ゆえにほとんど絶滅してしまった手作業での植毛技術。しかし西本さんは時代に流されず、ずっと機械と植毛に向き合ってきた。どうしたら周りの人の役に立てるだろうと考えながら。そして今、時代の方が西本さんに寄り添ってきたとも言える。
「いまが一番幸せ」
75歳でそう言い切れる西本さんの40年間の歴史が「先が見えなくても、迷わず進みなさい」とそっと背中を押してくれたような気がした。
100%自然素材の歯ブラシ「turalist」公式HP
2023/09/28 12:39