ぼくは毎年、「ちゃんとした食べもの」をテーマにを旅する。
地元の有機農作物の生産者らによる食の祭典「マルシェ」が定期的に開催される熊本・阿蘇、離島間に自然栽培農家のネットワークが広がる沖縄、たくさんの若い農家に慕われる無農薬栽培のカリスマがいる埼玉・小川町など……。たくさんあって、とても書ききれない。
〈Photo. Daisuke Yosumi in NZ / 毎週末行われるNZの地産地消のファーマーズ・マーケット。庭にない野菜はここで購入〉
3.11以降、日本では食への意識が高まった。
水や大気の汚染が叫ばれて半世紀近く経つが、今では複雑化した「食料汚染」が大きな社会問題となっている。
日本では、もっとも危険な放射能をはじめ、農薬と食品添加物の過剰使用(世界トップクラス)、そして遺伝子組み換え作物の混入など。
これらの多くは、暴走を続ける「経済成長至上主義」に起因していると言っていいだろう。利潤追求のために効率性のみを優先して、地球環境や人類の健康をまったく無視する。
本来〝生き物=命〟である食料を〝単なるモノ〟として扱い、非倫理的で異常ともいえる手法で大量生産する。
それは自然の摂理を無視した暴挙。
前述の地方発の、食をめぐるこの新しい潮流は、そんな〝非人間的・非自然的な暴走〟へのクリエイティブな抵抗だ。
〈Photo. Daisuke Yosumi in NZ / NZの一般的なスーパーではフェアトレード&オーガニックのバナナが普通に売っている〉
ぼくのように、何日間も山や川を歩いたり、原生林の真ん中で野宿したり、カヤックやマウンテンバイクで大自然の奥深くまで冒険したりしなくても、人はシンプルに食を通して、大地と、自然界とつながることができるのである。
なぜなら、どんな食料も本来「命」であり、その〝命の母である大自然〟からのいただきものだから。
ぼくが暮らすニュージーランド湖畔の森で、土まみれになって野菜を育て、魚を釣って自分の手で命をしめていただく。
そんな営みを続けていると自然に、地球に生きるヒト科の生き物が本来もっていた〝生命観〟を取り戻せるようになる。
そして、美しき日本語の「(命を)いただきます」の、本当の意味を理解できるようになったのだ。
2016/06/12 18:00