ここニュージーランドは夏に突入。
(当時2014年2月)

庭の畑でとれた野菜が、わが家の食卓を埋め尽くす。
自給率がもっとも高くなるのはこの季節だ。

〝日々の有機物のめぐり〟が夏の収穫を左右する。

冬が終わり暖かくなってくると、庭や周りの森の植物たちは歓喜し、どんどん成長しはじめる。春から夏、そして秋にかけては、週に1〜2度は必ず、庭と畑の雑草と対峙しないといけない。

ぼくは、大地と向き合いながら、単純動作を繰り返すだけの雑草抜きが大好きだ。
執筆やクリエイティブワークに行き詰まったとき、畑に出て15分ほど雑草を抜いてみる。心地よい緑の香りに包まれながら2〜3分でスッと瞑想状態に入り、あっという間に頭がすっきりしてくる。
結果、再び高い集中力を取り戻せるのだ。

〈雑草抜きメディテーション。Photo Daisuke Yosumi in NZ〉

抜いた雑草はすべて、庭の片隅の堆肥コーナーに森の腐葉土と一緒に積み上げておく。そのまま数カ月寝かすと、微生物あふれる栄養価満点の〝極上の土〟となる。

キッチンから出る植物性の生ゴミは、すべて「コンポスト容器」に入れておくことで、豊かな有機堆肥に。

コールドプレスジュースの搾りかすや、使い終わったコーヒー豆の粉は「ミミズ・コンポスト」の中で、栄養価と即効性の高い液肥に変身する。弱った野菜の土に、この〝命の液肥〟ミミズジュースを水で10倍ほどに薄めてまいてやると、あっという間に元気を取り戻してくれる。

1 〜2年ほどして、野菜たちの成長が悪くなり、畑の養分が減ってきたと感じたら、これら数種類の自作の有機堆肥たちを混ぜながら、畑を耕すとよい。

化学物質や動物性の肥料を使わず、時間をかけて丁寧に土の栄養価を高めることができれば、野菜の味は格段によくなり、野菜たちの〝命の濃度〟も高くなるのだ。

〈左から。落ち葉ベースのコンポスト。腐葉土ベースのコンポスト。ミミズコンポスト。Photo Daisuke Yosumi in NZ〉

そして、2ヶ月に一度ほどのペースで行う、庭の樹々の伐採や剪定で出た大量の材木や枝は、簡単には土に還ってくれないので、風通りのいい森の中に積み上げておく。1年ほど乾燥させて、冬の暖炉の貴重な燃料とする。ちなみに、紙ゴミも貴重な火付け燃料となる。
そして、燃やしたあとの灰は畑にまく。土壌の酸性度を下げる役割を果たしてくれるからだ。

とにかく、うちで生まれる「有機物」は、一片たりとも無駄にしないオーガニック至上主義。
なぜなら、それらすべてが「命」だから。

食べて、ぼくの肉体の一部になってもらうことで、ぼくがその命を引き継がせてもらう。
もしくは土に還すか畑の堆肥になってもらうことで、大地にその命を引き継いでもらう。

「人間の大腸と、大地は同じ機能」というような言葉を聞いたことがある。
この言葉が正しいという事実を、ここ湖畔の森での「循環」をベースとした暮らしでは、日々体感することができるのである。

〈土に還る雑草。活躍するのはミミズや、眼には見えない微生物たち。美しい循環。Photo Daisuke Yosumi in NZ〉

ぼくの肉体を創り出す貴重なタンパク源となる魚は、目の前の湖や、近くの海から釣りあげてくる。自分でちゃんと血を抜いて丁寧にさばき、伝統的な和食の技術を使うことで、ほとんどの部位をいただけるから日本の調理文化は素晴らしい。

食べられないウロコ、内臓、骨は畑の隅に埋めて上質な肥料にするので、無駄になるものはない。
ちなみにぼくは、肉を食べないので、分解に時間がかかる動物の骨を、土に埋める必要がないから楽だ。

わが家では、ここで生まれる有機物はすべて、ぼくの体と、敷地内を循環している。

ちなみに、プラスティック、瓶、カンなどの土に還らない「無機物」は、市の分別ゴミに出すことでリサイクルに回し、再び命を吹き込んでもらう。ぼくはモノをあまり買わないうえ、この国は過剰包装がないので、そもそもゴミはとても少ない。

念のために言っておくが、これら無機物も、ぼくらが暮らす地球の一部を削ってもたらされたいただきもの。つまり命だ。

日本は「食品廃棄率の高さ」と「ゴミ処理場の多さ」が世界一と聞く。
だが最近は、ゴミを減らすべく、エコバッグや水筒を持ち歩く人が増えているのも事実。

「もったいない」という英語の単語にもなりつつある、世界から尊敬されるこの美しい哲学を生み出した、ニッポン本来の姿を取り戻す日が来ることを切に願う。