レコード会社プロデューサーの職を捨て、
巨大魚と冒険、そして真の自由を求めてニュージランドへ移住。
湖でサスティナブルな半自給自足の〝森の生活〟を営む男が
ずっと歩きたかった
〝川と原始林のロングトレイル〟へ挑む。 


▶︎ 文章&モデル:四角大輔|Daisuke YOSUMI
▶︎ 写真:山岳フォトグラファー加戸昭太郎|Shotaro KATO ▷ instagram
▶︎ 協力:ニュージランド航空ニュージランド政府観光局冒険雑誌『WILDERNESS』

【前編】川を遡り、山を越え、最古の森へ。7+1日間【前編】 ~ 水と...
【中編】川を遡り、山を越え、最古の森へ。7+1日間【中編】 ~ 水と森のロングトレイル、無常の世界    #02 ~
【後編】川を遡り、山を越え、最古の森へ。7+1日間【後編】 ~ 水と... 


〈DAY 03〉
ビバーク(野宿)を決断。
自分と森の境界線がなくなり、
大自然に抱擁された夜。
 


3日目。
晴れ時々曇り。

〈命の湧き水が、あちこちから鮮烈に吹き出していた。甘い沢の水は、川歩きの楽しみの一つ〉

ぼくがこの秋の終わりを選んだ理由は、過去2年連続で、夏場に釣り冒険ロケを行い、ひどい渇水に泣かされたからだ。
水量が極端に減った川は人間にとっては歩きやすいが、魚にとっては危機的な状況。

枯れる寸前の川から魚は姿を消し、恐ろしいほど釣れなかった。



この地の夏は、もともと雨はとても少ないが、この2年の雨不足は異常事態。
世界的な気候変動は、南半球の果てにある、この小さな島にも大きな影響を与えているのだろう。

初日、2日目に続き、今日はもっと激しくその判断を恨むことになる。
秋の終わりで日照時間が短くて日没が早いという、多すぎる水量との〝負の掛け算〟に、さらに泣かされたのだ。



昨日午後の大雨がたたり、川はさらに増水していた。

これまで以上にたいへんな作業を、数え切れないほど繰り返し、水圧に押されながら、まだまだ先にある源流を想像しながら、無言で前進を続ける。

すべての筋肉をギシギシと鳴らして稼働させながら、とにかく上へ上へと歩を進める。
だが川は、暴れだす寸前の眠れる竜ごとく、静かにぼくの挑戦をはねのける。



日没が迫っていた。
霧雨と厚い霧も気になった。

泊まる予定にしていた小屋はもう目と鼻の先だったが、ここでのビバーク(野宿)を決断。

この水量の川を、光量が少ないなか遡上する行為は非常に危険を伴う。
不安と焦りのなか前進するよりも、ここですぐに休息を得られる安心を優先したと言った方がいいだろう。





安心して野宿できる場所を探さないといけない。

河原はフラットで一見快適だが、当然危険。
急な増水や鉄砲水を避けるために、森の中へ入る。



がしかし、斜面がきつすぎて、なかなか大人が横になれる平らなスペースが見つからない。
30分ほど這いずり回って、やっと理想的な場所を発見。

雨が降っても、濡れずに安眠するための最低限の野宿セットは持っているものの、小屋泊前提だったため、テントとマットレスはない。

寝床の完成と同時に、森の中は漆黒の闇に落ちた。
ギリギリだった。



ヘッドランプを頭に付けて静かに寝袋に潜り込むと、そこはフカフカのベッドのようだった。

豊かな森の厚い腐葉土と、その上に敷き詰めた葉が、極上の天然のマットレスとなっている。
寝転んで天を仰ぐと、ブナたちの枝葉が覆いかぶさり、優しく手を広げていた。

それはまるで、屋根があるかのような安心感を与えてくれていた。
すぐ下に泉があるので、安全な飲料水も確保済みだ。

〈テントもタープもなしのリアル野宿(ビバーク)。この国には、人を襲う猛獣もヘビも、サソリもいない。夜の森が怖くないというのは最高だ〉



まったく遮るもののないビバーク特有の、大自然と一体化できるこの感覚はたまらない。

眠っていると、自分と森の境界線がなくなり、大自然に抱擁されている心持ちになる。
客観的には厳しい状況かもしれないが、寝袋に顔を埋めながら、ひとりぼくはウキウキしていた。

言葉ではいい表せないほどの安堵感と、泉から聞こえてくるリズミカルな水の音色のせいか、すぐに深い眠りに落ちた。

 

〈DAY 04〉
命を賭けて疾走する
野生の弾丸ニジマスと
それを追う人間。
 


4日目。
晴れの後、集中豪雨。



念のために雨対策はして眠ったものの、幸運にもまったく雨は降らず。
快適な朝を迎えることができた。

ぼくはこの日、〝あること〟をやろうと決めていた。
釣りだ。





この名川に生息する大型のマスを釣って食べることが、今回の山行の大きな目的のひとつだった。
本来ならば、ここまでの区間で何尾も釣り上げている予定だったが、釣りどころではなく、当然、竿を出すことさえできていない。

ここまでの区画は、大きなニジマスが釣れることで有名なのだ。
そんな川に、一度も釣り糸を垂らさずにいるのは、釣りのためにこの国に移り住んだぼくにとっては、ある意味、拷問に近いと言える。

森の中でパッキングを済ませ、慎重に川へ降りる。
河原に着くなり、すぐにフライフィッシング一式をセット。
今日は、フライロッド(釣竿)を片手に、魚を探しながら進むのだ。

〈ぼくが持ち込んだ必要最小限のフライフィッシングの道具。4日目にして遂に、活躍のときがやってきた〉



心地よい緊張感に包まれながら、谷間から見上げると、空は眼が覚めるようなブルーとなっていた。

「よし!」声に出して叫ぶ。
ぼくの釣り方は「サイトフィッシング」と言って、先に魚を見つけた上で狙って釣る方法。

この釣りは、晴れている方が魚を見つけられるため、だんぜん有利だ。
はじめて天が味方についてくれようとしているのだろうか。



しかし、歩きはじめて数時間後、ごくは失意の中にいた。

マスが通常つくフィーディングレーン(エサを食べるために魚がいる定位置)に、まったく魚影がないのだ。
大雨による増水と濁りが繰り返されたためだろうか。
不順な天候が続くと、野生の生き物たちは身の危険を感じ、捕食活動にブレーキを掛ける。

状態が安定するまで、安全地帯に身を隠し、そこで息を潜めているのだ。



あと1時間ほどで、次の小屋に到着するかの距離まで来たところで、やっと大きな影を発見。
濁りの入った水なので、完全に目視はできないが、体色のグラデーションの感じからニジマスと予想できた。

4日目にしてやっと、ぼくのフライ(毛バリ)を、魚にプレゼンテーションできる。

自宅で、原野でのこういう状況をシミュレーションしながら、釣バリに鳥の羽を巻きつけて作ってきたのだ。



いよいよ本番を迎えると突然、動悸が高まり、指先が少し震える。
いろんな人生経験を重ねて40歳半ばとなったぼく。

欲望と巨額マネーが交錯し、奪い合いと欺し合いが日常の、東京のショービジネスのど真ん中で15年近く闘い続け、幾度となく修羅場をくぐってきたはずなのに、ぼくの片腕ほどの、わずか60cmほどの魚を前に、このありさまだ。

文明社会で退化した人間なんて、野生の生き物の前ではしょせん赤子のような存在なのである。



音を立てないよう、抜き足差し足で「そーっ」と静かに近づいてゆき、射程距離に入る。
足で河原の石を「ゴリッ」とやった瞬間、水中の魚に存在を気付かれてアウトだ。

がしかし、残念ながら、マスの動きから「食い気」はまったくなさそうだ。

「これは、たぶん釣れないな...」とかなり確率が低いことを覚悟しながら、竿の影が魚にかからないよう、糸が水面を叩かないように、慎重に、やさしくキャスト。



マスの目の前、まさにイメージ通りのところにフライを流せたものの、一投目は残念ながら魚は、まったく反応しない。

こういうときは「いつか食べてくれるハズだ」と信じ抜いて、しつこく投げ続けるしかない。
でも、何度か投げることで、ぼくの気配を感じさせたり、悟られてはいけない。

何投目だろうか、水中を流れるフライが、マスの鼻っ面に迫った瞬間、エラを広げて「フワッ」と吸い込んだように見えた。

ワンテンポ置いて、竿をあおってアワせる。



掛かった!

だが数秒後、すっぽ抜けるようにフライが外れてしまった。
糸をたぐり寄せると、ハリに大きなウロコが掛かっている。
口ではなく、体の一部に掛かってしまっていたのだ。

食ってはいなかったのだ。
食欲のないマスを狙っているときによく起きる現象だ。

その後、また一尾見つけるものの、何度かフライを投げているうちに、「す〜っ」と姿を消してしまった。

小屋が近づき、もう諦めかけたころ、明らかに水中でエサを追っている〝やる気〟のニジマスを発見。

時間的にラストチャンス。でも大きなチャンスだ。
これまで以上に精神統一をする。
そして3投目くらいだろうか、魚がフライを追いかけて口を広げた直後に、ハリを外そうと大きく左右に首を振る。



完璧なヒットだ。

その直後、水しぶきをあげながらマスは猛烈なダッシュを見せる。
釣り竿が根元から曲がる。
ロッドのカーボン素材がキリキリと悲鳴をあげる。

魚は、雨によって太く強くなった流れに乗って、一気に下流に向かって走り出す。

「これはまずい!」。
ぼくも岩から岩へジャンプを繰り返しながら一緒に走る。

〈野生ニジマスが弾丸のように水中を突っ走る。それを追いかけてぼくも走る。必死、だが至福のときだ〉

どれくらいファイトしただろうか。
気持ちの上では1時間くらい、でも実際には15分くらいだろう。

この冒険で初めての獲物、偉大なる野生ニジマスをやっとのことで手中に収めたのだった。

〈今回は1週間のうちわずか、2時間ほどしか釣りができなかった。唯一の獲物、偉大なる森からのいただきもだ〉

〈美しいの一言。まさに清流の妖精。森の宝石。そして大地の命〉



「ありがとう」と心の中でつぶやきながら命をしめて、バックパックに刺して小屋まで運ぶ。

小屋の前の流れで丁寧にさばき、サーモンのように豪華なピンク色の身を小屋に持ち運び、暖炉でハーブ焼きにする。







美味い。
最高のディナーだ。泣けてくる。

純度の高いマスの命と共に、すべての栄養が体に染み込んでいくようだ。
世界でもっとも贅沢な食事をしているのは自分だ、と少し傲慢な気持ちになってみる。
この旅はじめて真の満足感に浸り、しばらくニヤニヤしていた。

しかし、そんな幸福気分を壊すかのように、屋根が、聞いたこのないほど大きな怒号を上げていた。

雨だ。

雨というより、小石が降り注いでいるかのような、この世の終わりのような、ものすごい爆音。
「ま、こんな豪雨はそんなに続かないさ」なんて、無理矢理に楽観的に構えてみても、弱まる気配はなし。



ドアを少し開けて外を伺ってみると、台風のような突風が吹いている。
単なる集中豪雨ではなく、嵐だった。
恐怖さえ感じるレベルだ。

とにかく寝ないと、と寝袋にくるまる。
だが音がうるさくて眠れないので、耳せんをしてなんとか就寝。

それでも心配で夜中に何度か起きるが、雨も風は静まらない。
「なんとか止まってくれ!!」と叫びたくなる感情を、ぐっと押さえる。

これは下山後に知ったのだが、これはニュージーランドの歴史においても記録な集中豪雨で、各地で被害があったという。
ぼくが山にいることを知っている友人たちは、それはそれは心配してくれたらしい。

〈「命をいただきます」。森の神様、そしてこの水の精へ感謝の気持ちを言葉にする〉

〈ニジマスの心臓。ぼくはいつも、獲ったばかりの心臓を生のままいただく。ぼくと魚の命がつながる瞬間だ。そしてこの貴重な栄養は、ぼくの体の一部となる〉