人生の転機
安藤
人生の転機って、今まで多々あったと思うんですけど教えてもらえますか?
四角
ソニー・ミュージックで最初は営業だったんだけど、当時は、月に200タイトルくらいの音楽ソフトを営業しないといけなかった。
安藤
そんなに…?毎月200タイトル…
四角
途方も無い数字でしょ。
そのうち、1割の20タイトルぐらいが会社として「プライオリティ指定」されて、絶対に数字を取ってこいと言われる。で、残りもそこそこ取ってこいみたいな感じで。でも、ぼくはその「プライオリティ20タイトル」がしっくりこなくて従うことができなかった。
驚いたのが営業の人も、一部の心あるバイヤーさんを除いてお店の人も音楽をほんの少ししか聴かない。それが信じられなくて。ぼくは、なるべく全部聴いて、この曲が好き、このアーティストがいいと思ったら、そのアーティストの資料を独自でつくって、売り込むわけ。
安藤
へーーーー!
四角
でも、こういうやり方は会社からは一切評価されない。営業ランクは最低評価だったからで自己肯定感も得られないし、「あいつはダメだ」っていつも言われるから、とてもつらい状態だった。
だけど、そういう「マイ・プライオリティ」を作って熱く語っているうちに、ぼくが担当する10店舗すべてで取り扱ってくれるようになる。そんなこと他にやる人いないから、その小さな10店舗限定だけど売れるようになる。
全国的な売り上げにはほとんど影響はないけど、そこには「強い自己満足」があった。結果としては、会社からは評価をされたわけじゃないけど、そのやり方で得られる自己肯定感は後の人生に活きてる。
大きなターニングポイントとしては、平井堅。
〈Photo. Takuya Tomimatsu / Model. Daisuke Yosumi / 「頭ではなく、心で感じよ」人生でも仕事でも何よりずっと大切にしてきた言葉〉
安藤
ここで、大輔さんの人生に平井堅が登場するんですね。
四角
その頃はまだ無名だったけど、ぼくは絶対売れると思って頑張った。
まず1店舗だけで大きく取り扱ってもらう形からスタートして、1年がかりで、最終的にそういう店舗が自分の担当10店舗全部になり、2年がかりで北海道全域に増えていって、平井堅のCD売上全体の30%が北海道!ってところまでいった。
それでも会社としての評価にはならず、「四角は偏ってる」「狂ってる」と苦笑い。
でもこれが、当時の平井堅のプロデューサーの目に留まり、翌年に彼のアシスタントプロデューサーに抜擢されて、平井堅を担当することになる。ここで強調したいのは、その「平井堅北海道ブレイク」は、最初の1店舗の、ある一人の担当の方の手から始まっているということ。
「味方は一人いればプロジェクトは成功する」っていう話をぼくはよくするけど、まさにこの体験がその言葉のルーツなんだ。
安藤
味方は一人いればいいって、大輔さんいつも言いますよね。
四角
その後、宣伝マン兼任のアシスタントプロデューサーを卒業し、いよいよプロデューサーとして独り立ちってときの話だけど。まだ若かったこともあって、誘われる仕事に対して何でもかんでも「やります!」って即答してたら、いつの間にかアーティストを6組も担当することになってた。
これは明らかに多過ぎで、2年ほど頑張ったけど結局どれも売れなかった。かなり思い入れのあったバンドが契約切られて、バイト生活に戻るのを見ているうちに、ノイローゼみたいになってしまった。
当時のソニー・ミュージックには、1回だけ、直に人事に相談して好きな部署に異動できるという制度があって、社会人5年目にその権利を発動した。
安藤
そんな制度が(笑)
四角
上司には、「自分はプロデューサーに向いていないので異動させてください」と何度も相談してたけど、まったく聞き入れてくれなかったので、その制度を使って新人発掘の部署に異動した。
デモテープを聴いたり、ライブハウスに行ったりして、有望なアーティストの卵を見つけ出す、売り上げを立てる必要がないこともあり、厳しい数字を日々クリアし続けないといけない営業や宣伝、プロデュースに比べると楽な部署だった。
この1年が僕にとっては大きかった。欧米で言う一種の「ギャップイヤー(Gap Year)」だよね。「この間、釣り具メーカーのオーディションに受かったり、フライフィッシング専門誌ではじめて原稿を書いたり、当時全く理解できていなかったインターネットの勉強を一から始めたり、英語の勉強をし直したり。
安藤
ギャップイヤーって必要ですよね。
四角
あのまま仕事で走り続けいたら身につけられなかった、音楽の仕事には直結しないけど、後の人生で大切なスキルを身に付けられた。それまでの営業、宣伝、プロデューサーの職種と比べると、その1年間は自由な時間をたくさん持てて、頭の中をリセットすることができたんだ。
ぼくは、居心地のいいその新人発掘の部署にずっといたかったんだけど、その希望は叶わず、「自分は向いていない」と思い込んでいたプロデューサーの仕事に戻されることに。
そこにぼくを強引に引っ張ってくれた人っていうのが、ぼくの札幌営業時代の「マイ・プライオリティ」という、誰も評価してくれなかったやり方を買ってくれて、ぼくを平井堅のアシスタントプロデューサーにしてくれた元上司だった。
昔、カメラが得意な、引きこもりがちないじめられっ子がいて。体育祭の時にぼくは彼を無理矢理、写真担当に推薦した。彼が撮影してるとき、みんなは「気持ち悪い」とか言うんだけど、いざ現像があがってきたら、写真があまりにもすごくて、彼はヒーローなった。「あいつすごい!」って。
安藤
いい話ですね。
四角
今思うと、その上司もきっと同じような気持ちで、仕事はできないけど、「コイツには何かがある」って信じて、ぼくに声をかけてくれたんだろうなって。
この上司が仕事の鬼で(笑)、仕事がキツすぎて身も心もボロボロになったけど大好きだった。その人がぼくに、CHEMISTRYを引き会わせてくれた。ちなみに、それまでのぼくのプロデュース方法はとても尖鋭的すぎたんた。
音楽、ヴィジュアル戦略、ブランディング、すべてがマニアックだった。
玄人受けばかり狙って、メジャーな売り方は苦手だったけど、尖ったアーティストのブランディングは得意だった。「四角がつくるものはアーティスティックでエッジが立ってる。売れないけど(笑)」と言われてた。
CHEMISTRYは当時すでに、全国ネットのTV番組『ASAYAN』で1年半に渡ってオーディションの模様が放送されていてすでに知名度は高かった、でも、『ASAYAN』ってモーニング娘とかを輩出していたから、CHEMISTRYもアイドル扱いされていた。だから興味がなくて全然見てなかった。
安藤
『ASAYAN』見てました〜。
四角
今は誰も信じて貰えないかもだけど、当時、彼らに出演オファーが来ていたのは、「明星」などのアイドル向けのメディアばかりで、音楽的なメディアからはまったく無視されていた。アーティスティックなブランディングするのが得意なぼくがなぜアイドルなんですか?って、生意気にもその上司に聞いてみた。
そうすると、「そんなお前との化学反応を期待してるんだ。CHEMISTRYをアイドルじゃなくて、アーティストにしてほしい」って言われて、ぼくの中のスイッチがオンになった。それで生まれたのが、CHEMISTRYをアーティストに昇華させる、当時は「異常」とも言われた(笑)、あの徹底的なブランディング戦略だった。
安藤
これは、はじめて聞く話ですね〜
四角
やっぱり新人発掘の部署での1年間が大きかったと思う。CHEMISTRYのようなアーティストと出会ったとしても、6組も担当してたらできないし、やったとしてもすべてがうまくいかなかったはず。
実は、新人発掘の部署で働きながら、会社を辞める準備をしていたんだよね。結果的には、予期せずまたプロデューサーになるんだけど、その1年間で本気で辞める覚悟を持てたっていうのも大きかった。
CHEMISTRYを担当する際、他に2組のアーティストもやることになっていた。でもその上司に、「結果が出なかったらクビにしてもらっていいんで、CHEMISTRYだけに集中させてください」って頼み込んだ。
当時のレコード会社の常識では、「一人で1組だけ担当」ってのはあり得なかった。でも、キャパのない自分には、2~3組でもキャパオーバーだってわかってたから、「1年間だけください!」って非常識を承知で言い切れた。
そういう勝負に出られたのも、辞める覚悟と準備ができていたからってのは正直ある。
▽シリーズ《安藤美冬が迫る、四角大輔の真実》
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実①】バイトが人生を創る!?
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実②】〝ライフテーマ〟のルーツ
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実③】人生の転機
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実④】本当のキャリアデザイン