「自由」という概念との出会い


安藤
大輔さんはなんで英語をやろうと思ったんですか? 学生時代からNZに行きたいと思ってたんですか?

四角
小さいときから、父親が海外出張によく行く人だったんだけど、それが影響してか他の家庭より少し開放的で自由な雰囲気があったなと。父親が海外で、日本という島国とは違う空気を吸って帰ってくるからか、家庭のルールや常識がほんのちょっと他と違うと感じてた。

確か小学生になる前くらいだったか。
父親が地球儀で日本列島の場所を教えてくれたとき、「え、こんなに小さいんだ....!!!!」って衝撃を受けた。だって当時のぼくにとっては、ご近所周辺と時々行く、親戚の家の周辺が「世界」だったから。

本能的に、日本語しかできないのは「すごく縛られることだ」って気付いたんだよね。そして、日本語はここでしか通用しない、でも英語は世界中で通じるっていう事実は、子どもながら心に衝撃だった。英語ができなかったらずっとこの小さな島国に縛られ続けて、本当の意味で自由になれないんだ....!って。

小学生から勉強が大っ嫌いだったのに、ご近所のおばさまが家でやってる「子ども英会話教室」に、自分から行きたいって言い出したり。
中学校からは、英語だけは真面目に勉強してずっと90点以上。高校でも80点以下を取ったことがなかったの。他の科目はだめだったけど(笑)。

「英語ができないと本当の自由は手に入れられないんじゃないか」と本気で思ってたんだよね。

安藤
ノマド的に生きる人って、小さいときに何かしら海外に触れていることが共通体験かもしれませんね。
私の家も、母方の祖母がマレーシア生まれで幼少期まで過ごした経験があって、父親は社会科の教師なので子供時代に世界史を個人指導してくれていました。大輔さんのように、海外と密接にビジネスをする家族が身近にいたわけではないのですが、なんとなく自由な風が吹いていたというのはありますね。

四角
日本って、長い歴史の中で、島国という地形的理由や文化的な側面もあってか、「自由」って言うキーワードが否定されてきたところがある。そんな「縛り前提」の禅的ともいえる、日本のストイックな考え方も実は好きだから全否定はしないけど、この「自由に生きちゃいけない」みたいな社会風潮の中で、まったく違う常識の外の世界を知っている人が、家族でなくても誰か身近な人が一人でもいるだけで違うんだろうね。

そういえば、NZにはマオリ族っていう先住民がいて。彼らは、自然を自分たちが支配するんじゃなくて、「自然が自分たちを所有している」っていう考えを持っている。

NZの自宅の隣にマオリの人が住んでいて、彼女が超イケてるんだよね。その人がいつもマオリの哲学を教えてくれるんだけど、なんか聞いたことあるな…と思ったら、うちの母親が言ってたなって(笑)

母親は、勉強しろとか一切言わない人で、服や靴がドロドロになって帰っても、絶対怒らなかった。でも他の友達は家で怒られるわけ。怒られるやつと遊びにいくと、ぼくが圧倒的に有利なわけで(笑)。「お前この泥の中に行けないの?俺いけるで~!」って。めちゃめちゃクリエイティブになれたわけ。

最低限のルール、人として当たり前の一線さえ守っていれば、別に泥だらけになっても全然怒られなくて。洗えばいいんだからって。そうすると「挑戦」ができる。クリエイティブなことに挑戦する習慣ができたのは、母親のおかげかな。

父親は正反対で、高学歴で大企業の重役だったから、顔を見る度に勉強しろって。この対極が面白かったんだよね。父親は学歴や世間体をすごく気にする。母親はそんなものはどうでもいいって(笑)。

〈Model. Daisuke Yosumi / 仕事の鬼だった父親と、ナチュラリストな母親の間に生まれて。1988年、高校3年生の米国留学時の1枚〉

安藤
こういう両極端の人たちが夫婦になるのが面白い。大輔さんはハイブリッドですね。
そういえば、大輔さんといえば、音楽プロデューサー時代は仕事の鬼だったって聞きますが?

四角
ぼくは猛烈に働くスーパーサラリーマンだった父親を否定してた。
父親みたいにはならないぞって。父親の勤めていた大手家電会社と、ソニーミュージックという両極端な会社から内定をもらったときに、父親はレコード会社というエンタメ業界には否定的で、当然自分の会社に来るだろうって思ってたけど、ぼくは当然ソニー・ミュージックだって。その時、ものすごく対立した。

ぼくは父親みたいになりたくないからって。
けど、社会人6年目ぐらいかな。親父がぼそっと、「お前、俺より働いてるな」って(笑)。

そのときは、CHEMISTRYが大ブレイクまっただ中で、午前2〜3時ぐらいまで仕事して、9時半には出社って毎日を1年近く続けてたとき。人生でもっとも体と心がボロボロだったから、さすがに心配したみたいで。

仕事に対するスイッチの入り方は父親の血を引き継いでるみたい。

安藤
そうそう。大輔さんは仕事にすごく細かい。けれども同時に大輔さんって、雰囲気はオーガニックで、現在のライフスタイルはとてもゆったりですよね。

四角
野球やってたこともあって、小さいときから早寝早起きで、夜8時半に寝て、毎朝5時半に起きるって生活してた。母親の教育で、テレビは夜8時までしか見たらだめってなってたから、学校でクラスメートと話が合わない。そのときから、ぼくの人生は世の中のムーブメントから完全に違う方向にいってたんだと思う(笑)。

でも、うちの母親には「いい映画が放送されるときは9時以降でも観てもいい」っていうルールがあった。寝る前にテレビ欄見て、「今日は来そうだな」と思ってベッドに入ってると、階段を登る音が聞こえてきて、「大輔、今日の映画いいから今から観よか」って。「やっぱりきたー!」みたいな。けど、母親の目に留まる映画は、学校では誰も観てなかったりするっていう(笑)。

母親がそういうリテラシーを勉強して身に付けたわけじゃないのだけど、本能的に「テレビというメディアを子どもが見続けるとヤバい」って気付いてたんだよね。マオリの教えと同じようなことを、ぼくの教えてくれたのも、別に知ってたわけじゃなくて「人間らしく生きるとは、地球人として生きるとは」という、もっとも大切な本質を〝本能的に〟理解していたんだと思う。

この母の、「本能が告げることを重視したり、判断基準にする」という血も、ぼくは見事に引き継いでいるんだよね。

母親は当時から玄米を食べさせてくれたり、「川を汚したくない」って言って天然成分の洗剤を見つけ出して使ってたりしてた。ぼくがナチュラルでオーガニックになったっていうのは、完全に母親からの影響。

母親はアーティスティックでクリエイティブ、父親は頭が切れて、プロダクティビティ(効率)に関しては超エキスパート、という。

安藤
大輔さんを見ていると、人としてとても幅があるなぁっていつも感じます。何かそのルーツってあるんじゃないかなって思うんですが、いかがですか?

四角
やっぱり、そんな「両極端に振りきった両親」に育てられた影響が大きいと思う。さらに、父親が登山部で渓流釣りが得意だったことが、今ぼくがやってる山登り、キャンプ、釣りなどのアウトドアの仕事につながってるし。

あとは、漫画かな(笑)。

当時ドラえもんが大ブレイクした時代で、皆「初めて読んだ漫画=ドラえもん」だったんだけど、ぼくにとって初めての漫画は手塚治虫の『火の鳥』と『はだしのゲン』だった。当時は、半分ぐらい意味がわからなかったけど、宇宙観や生命観といった哲学的思考や、人が生きる意味、死ぬ意味といった深いテーマに関しては、『火の鳥』から教えてもらった。

ここから、ぼくは手塚治虫にどんどん傾倒していく。最終的には、彼の作品はすべて読むことに。未だに『手塚治虫全巻』はすべて持ってる。裁断してPDFデータにしているけどね。

広島の原爆のことを描いた『はだしのゲン』からは、世界には理不尽がことがある、巨悪が存在する、といった社会的なことをたたき込まれた。ぼくが、社会的なメッセージを発信するのは、この漫画がルーツだと思う。

大学に入るまでは漫画しか読んでなくて。本はほとんど読んでなかったんだ(笑)。

安藤
大阪という場所、土地柄も関係していますか?

四角
うーん、正直、大阪のノリは合わなかった。

みんな漫才師みたいでめちゃ面白いなーって正直いつも思ってて(笑)。ぼくはギャグとか言えなかったので「オレは無理やなーっ」て。
母親からも、「あんたはほんとつまらんな」ってずっと言われ続けてきた。母親にもらったトラウマの一つはそれ(笑)

安藤
だからこそ、NZをはじめ、外に出て行ったのかも。生まれ育った土地への違和感って、私も三鷹にありましたよ。私なんでここに生まれたんだろう?って。土地への違和感も、きっと大事だと思うんですよね。

生まれ育ったベッドタウンが〝森の生活〟のルーツ


〈Photo. Daisuke Yosumi in NZ / 現在はニュージーランドの湖畔にて自然と共生する森の生活を営む〉

四角
ぼくが生まれ育ったのが、大阪市と京都市の間の枚方市っていう、当時、70年代から80年代にかけて急激に発達したベッドタウン。他人と比べることが大好きな中流家庭の集まりで、そこにはいわゆる「カルチャー」が無かった。何かにつけムダに競争したがる人たちが多かったっていう印象がある。

安藤
みんな同じトーンの家に住んで、個性が無いですよね。

四角
確かに同じような家が並んでたかも。でもうちはちょっとヘンで…瓦がオレンジ色だった。当時、瓦って茶色とかのアースカラーが普通だったから、それだけでなんか〝ヘンな家〟扱いされてた。

安藤
それは、お父さんが目立ちたかったんですかね?

四角
海外出張によく行ってたから、アメリカの西海岸の家をイメージしてたのかも。今思えば、「どこがやねん」って感じだけど(笑)

安藤
どこがやねん(笑)。
けど、そのベッドタウンで生活したときの息苦しさって、大輔さんがよくおっしゃる「一億総アーティスト」だとか、「クリエイティビティ」に繋がってそうですね。

四角
ベッドタウンの一つの特徴は、小さい頃からまさに目の前で環境が壊されていくこと。

幼稚園の頃は家の目の前に小さな山と池があって、山の上に基地作って、溜め池ではザリガニが釣れるし、自転車で5分ぐらい走ったらフナやコイがめちゃくちゃ釣れる沼もあった。さらに、林の中にあれは夢か幻だったんじゃないかって思うぐらい、綺麗な湧き水の池があった。それが今、NZの湖畔暮らしのルーツになってる。

やがて、そんな自然環境は完全になくなり、住宅地に変わってしまった。当時は、それは「開発=進歩」というポジティブな行為とされていたけれど。その時に強く感じた、自然がどんどんなくなっていくことに対する違和感と、何とも言えない喪失感が、環境問題や自然保護へのぼくの意識を高めたんだと思う。そしてそれが、今のNZでの森の生活に繋がってる。

あとは、「地元集中」っていうよくわからないルールがあって、隣町の公立高校に行ったら、隣の校区の子が一人そこに行けなくなるから、みんな地元の高校行きなさい、という気持ちの悪い暗黙のルールみたいなのがあった。

勉強できる子が、偏差値が高い隣の校区の高校へ行くって言い出したら、次の日、教室で、「みんな、こいつが〇〇高校行くって言ってるんやけどどう思う」って先生がつるしあげる。

安藤
えー!最低。選択の自由なんてないじゃないですか。

四角
学校ではみんなと一緒のことをやれっていう同調性を猛烈に押し付けられて、家周辺では家庭同士が〝勝ち負けがはっきりしない不思議な競争〟をしてる。でも母親はそんなことを一切気にしない(笑)

そんな母親に支えられながらも、同調圧力や無意味な優劣競争に苦しまされたことで、ぼくの中に強烈な「自由欲」みたいなものが生まれたんだと思う。

ぼくは母親のおかげもあって完全には壊されなかった。
実際には、ぼくよりもっと不器用な仲間がいて、彼らは潰されたり、いわゆる「一般ルート」から外れていく。つまり、不登校や非行に走っちゃう。

そして、彼らの多くは、ものすごく優しくて繊細で、人間的にとても魅力的だった。そして、学校では決して見せない「際だった何かや特技」を持っていた。でも彼らのほとんどが「社会的にダメ」というレッテルを貼られてしまっていた。

「人は誰もがアーティスト」、「日本を一億総アーティストの国にしたい」というぼくのライフテーマは、そういう経験から生まれてきたのかもしれない。



▽シリーズ《安藤美冬が迫る、四角大輔の真実》
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実①】バイトが人生を創る!?
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実②】〝ライフテーマ〟のルーツ
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実③】人生の転機
【安藤美冬が迫る、四角大輔の真実④】本当のキャリアデザイン