当時、ぼくは、「趣味はなに?」と訊かれたら、「ソロキャンプ、ひとり焚き火、独学フライフィッシング」と即答していた。


人間とは距離を置き、自然のなかに、ひとりでいるのがいちばん幸せで、大自然がつくりだす奇跡としか言いようのない美しい現象をなによりも愛していた。そしてそれを、ひとりで味わうのが至上の歓びだった。

その頃は「人間がつくりだすものなんてしょせん高がしれている。自然がつくりだすものには絶対に敵わない」と言い切っていた。

これは、幼少の頃から長年にわたって蓄積してきたトラウマが、ぼくを人間不信に陥らせていたからでもある。友だちはたくさんいるようで実際はおらず、ぼく自身が本当の意味で心を開き、ちゃんと心のつながりを持てている人間はほとんどいなかった。

ずっと、世の中に対して、漠然としたネガティブな感情を抱いていた。こんな世の中でいいはずがない、世の中を変えたい、と考えるようにもなっていた。

そして、就職活動をするにあたり、「世の中の流れをいい方向に変えられる」、「大自然の北海道で働ける(ニュージーランドは遠いのでまずは)」という二つの条件を満たす仕事に就く、という戦略を立てた。

世間知らずで若かったぼくは、この世の中を変える方法は、教壇に立つことか、ドキュメンタリー映像を創ること、この二つしかないと思い込んでいた。その結果、第一志望をNHK北海道支社でのドキュメンタリー制作、第二志望を北海道の公立高校での教員とした。

NHKは最終手前で落とされて断念。
教員となるべく、大阪の母校で2週間の教育実習を経て、中学高校の英語の教員免許を取得。次は、北海道の教員試験を受けるだけとなった。



「もしお前が教壇から世の中の流れを変えたいのなら、一度社会に出て、社会勉強をしてから教員になったほうがいい」

教育実習の最終日、高校時代の恩師からのこのひとことがぼくの人生を変えることになる。当時の北海道の教員試験の受験資格の上限は35歳。そのときぼくは24歳。よし、あと10年以上あるぞ。そう思った。

そして、NHKに入るための面接の練習として受けていた、『ソニー・ミュージックエンタテインメント』というレコード会社から内定をもらっていたので、そこに就職することに決める。

「レコード会社を経て教員」という、特異かつ不思議な経歴(笑)にワクワクしたこと。
なによりも、どの会社よりもソニーミュージックの面接が楽しかったことが、決め手となった。

もちろん、北海道支社があることも下調べ済みだった(笑)。

このソニーミュージックという会社はおもしろい。

新卒用の応募用紙の裏側の真ん中に、「ここのスペースを使ってあなた自身を表現しなさい」とあったのだが、ぼくはその真ん中に、初めてフライフィッシングで釣った天然のアマゴの写真をドンと貼り、その魚と出会うまでのノンフィクション・ストーリーを書いて、音楽とはまったく関係ないのに、なぜかそれが絶賛された(笑)。

そして、難攻不落で回数が多いことで有名な面接では(6〜7回あった)、釣りの話しかしなかったのに、なんと合格した。

強い希望を出して、入社1年目から北海道支社勤務となった。それから東京に戻るまでの2年間、寝る間も働く間も惜しんで、北海道の自然とフライフィッシングを楽しんだ。

特に、マンションから1時間以内で行ける、日本一の透明度を誇る美しき支笏湖には、週末だけでなく平日にも通っていた。仕事後に、学生時代から乗る、自作キャンピングカー仕様にしたバンを走らせて湖畔で一泊。夜明け前から釣りをして、そのまま朝9時には何食わぬ顔をしてオフィスに座っていたのだ。

その間に、ニュージーランド留学から帰国したトシゾウが、もはや自分は日本の都会で働くのは不可能ということに気づき、札幌のぼくの部屋に転がり込んできた。

その後、彼はそのまま北海道にいつづけ、結婚して子供も授かり(なんと名前はダイスケ!)、豊かな自然に囲まれている北見に住んだりしたのち、現在は札幌在住。トシゾウなりの旅を続けている。

ありがとうトシゾウ。
君のおかげでニュージーランドに出会えたよ。
そのまま幸せでい続けてくれな。



しかし、とうとう東京本社勤務になり、ぼくの人間嫌いはいっそうひどくなった。

札幌在住時代に愛した北海道の支笏湖に雰囲気が近く、富士五湖のなかで、いちばん原始の姿を残している本栖湖に、1時間以内でアクセスできる中央高速道の調布インター近くに部屋を借りた。
できる限りそこに通ってみたが心は凍りついたままだった。

東京の灰色の景色、排気ガスまみれの渋滞、説明のつかない悪臭、笑顔が消えた人たちによってつくりだされた人混みと騒音、そして激務によって、札幌時代には保つことができていた自分自身が崩壊した。

札幌では営業職だったが、東京ではメディアプロモーターとアシスタントプロデューサーという2つの仕事を兼任することになり、業務量が倍増した。

日常的にやりとりをする人間の数も10倍以上に増え、一気に100人単位となった。これが、人付き合いが苦手なぼくをさらに追い込んだ。いつのまにかぼくは、大自然の中から、誰もが一攫千金を狙うショービジネスのど真ん中、人間の欲望の渦に巻き込まれていた。

街をゆく人たちも、仕事で関わる人たちも、みんな早足でついていけない。会社の同僚や先輩、仕事先、全員が敵に見えた。原宿や渋谷の街を歩く人たちが、自分を笑っているように思えた。

朝、気持ちを奮い立たせないとベッドから起き上がれない。「おはようございます」という言葉さえ、どもってしまう。数年間、原因不明の咳が止まらず、突然40℃近い高熱が出る。奇妙な形状のじんましんが出たり、顔の半分が麻痺したり、ついには駅で突然意識を失って倒れた。心と身体が悲鳴をあげていた。



そんななか、ぼくの心の支えになっていたのは、音楽だった。

音楽には、「世の中の流れを変える力があるのではないか」とも思えるようになったのだ。

そして、担当するアーティストの純粋さや創造性、彼らがつくりだす美しい音楽に心を震わせて、ときには「人間がつくりだすものも、自然がつくるものと同じくらい素晴らしいのではないか」という気持ちになり、それを世に広める仕事に歓びを感じるときもあった。

だが、しばらくすると、またぼくは、人間に、街に、社会に、心を閉じてしまっていた。

支笏湖や阿寒湖で見た朝焼け、千歳近くの森のなかのある小さな湖に浮かべたフロートチューブ(一人用の小型ボート)からの景色、知床半島の雄大な映像を思い出しては、いま自分がいる場所を完全否定していた。

東京から逃げるように、フライロッドを持って、多いときは年に10数回も北海道に飛んだ。

しかし、不思議なくらい釣れなかった。
北海道の自然を目の前にしても、ぼくの心はすさんだままだった。そんなぼくを、北海道の魚も自然も相手にしてくれないのだ。

滑らかで、どこにも無理がない、矛盾がない、あるがままの自然のなかで、醜くギスギスとしていたぼくは「異物」以外のなにものでもなかったのだろう。

時々札幌におもむいてはトシゾウに会い、釣りをしながら昔話で盛り上がって大笑いすると、顔の筋肉が引きつった。東京では使っていない筋肉を使うからだった。

その頃から、ぼくは正式にまわりに宣言していた。

「こんな暮らしは嫌だ。いつかニュージーランドに住むんだ」


▼連載|NZ移住物語
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②心が壊れたプロデューサー時代。「NZ移住物語02|理想郷を探す旅」【就活〜社会人編】
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